1984年 世界初「缶入り煎茶」開発までの道のり 昭和編(まとめ記事)【#開発裏ばなし】
「商品企画室に異動を命ずる」
1981年5月、一人の若き社員に辞令が下った。異動先は「商品企画室」。商品をプロデュースする、そんな部署だった。聞こえは良いものの、当時の総員は3名。つい前日まで、茶葉の営業としてお店を駆け回っていたなかでの辞令だった。誰一人作り方を知らない「缶入り煎茶」の開発は、ここから始まった。
△社 三雄(やしろ みつお)取締役 専務執行役員。1981年から、商品企画室(現在のマーケティング本部)にて、「お~いお茶」を含む飲料開発に携わる。
時を同じくした1981年4月、一人の青年が「ヒット商品をつくりたい」、そんな想いを胸に伊藤園に入社した。「缶入り煎茶」の開発まで、1000回にも及ぶ試作のキャッチボールが始まる。
△安倍 義人(あべ よしひと)。特任研究員。1981年入社後、研究室(現在の中央研究所、品質管理部、開発部)に配属され、「缶入り煎茶」の開発に携わる。
1981年~1984年 緑茶が赤い!「酸化」との戦い。
緑茶飲料をつくった者もいなければ、設備も無かった。圧力鍋、ビーカー、ビン、コンロ、やかん。机の上でビーカーで緑茶を抽出して、ビンに移し、圧力鍋で加熱することで缶飲料の製法を再現した。緑茶の種類を変え、温度を変え、考えられる組み合わせは全て試してみた。それでも、圧力鍋から取り出した緑茶は赤かった。突破口を探し出すまで、試作は繰り返さた、、、
そんな葛藤の日々を記した記事がこちら。
1984年~1985年 1通のFAXが切り開いた緑茶飲料の未来。
1984年4月、商品企画担当者の社(やしろ)から開発部の安倍へ、1通のFAXが届いた。
「酸化を防ぐ突破口を見つけた」
これを機に、「缶入り煎茶」の開発は躍進する。そんな突破口を見つけてから、発売に至るまでの怒涛の日々を記した記事がこちら。
1985年2月1日 「缶入り煎茶」発売
1985年2月1日、晴れて「缶入り煎茶」が発売された。発売と同時に行われたアンケートでは、「行楽」「旅行」などのキーワードがあがり、インドアで飲まれていた緑茶の新たな可能性が垣間見えた。
▲1985年の発売と同時に行われたアンケート結果のメモ(一部を抜粋)
今でも伊藤園には、「缶入り煎茶」との思い出についてお客様から心温まるエピソードが届く。
実家は、父が工務店をしていました。子どもの頃、夏休みには、現場で働く職人さんに、10時、お昼、15時に大きなやかんに冷やした麦茶を出す母の手伝いをしたことを思い出します。お茶の時間をとるのは、作業をする上で事故を防いだり、体力維持のために必要なことだと聞きました。職人さんにありがとうと言ってもらえて嬉しかったのを覚えています。私が、出産のために里帰りした頃、缶入りのお茶が発売されました。最初は、お茶を買うことになじめなかったのですが、冷蔵庫でキンと冷やして飲んでみたら思いのほか美味しく感動したのが、のちの「お~いお茶」との出会いでした。早速冷やして職人さんにお出ししたのを覚えています。やかんのお茶から、缶のお茶、そしてペットボトルのお茶とますます便利に美味しく変遷していきました。今は、物置き小屋となっているひと気のない、作業場を見ると亡き父母と職人さんたちが、汗を拭きながら談笑してお茶を啜っていた遠い昔が、昨日のことのように姿が思い出されます。
(埼玉県 63歳 女性)
かくして「缶入り煎茶」の開発を皮切りに、「お~いお茶」の物語が始まった。
▽「缶入り煎茶」開発から「お~いお茶」誕生までの裏ばなしはこちら