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お~いお茶前々夜 vol.01【#開発裏のウラばなし】昭和編

 2021年師走。激動の2年が過ぎようとしています。今日から年末・年始にかけてスピンオフ。世界初の飲料を生み出した、当時29歳。商品企画担当者に入社当時の様子を語ってもらいました。名付けて「お~いお茶前々夜」。昔ばなしで恐縮ですが、開発裏のウラ?!ばなしをお届けします。

▲ ニックネーム「お~いお茶雄(通称:お茶雄)」こと 社 三雄(やしろ みつお)取締役 専務執行役員。1981年から、商品企画室(現在のマーケティング本部)にて、「お~いお茶」を含む飲料開発に携わる。

お茶雄:
 「一将功成って万骨枯る」(いっしょう こうなって ばんこつ かる)という言葉があります。歴史は勝者によって書き換えられ、美化される。しかし、その陰には、何百、何千、何万の犠牲の上に成り立っていることを表す言葉だと思います。創業者の苦労は想像を絶するものがあると思います。創業の精神を貫き、全身全霊をかけて事業に取り組む。ある者は成功し、ある者は失敗し消え、また、ある者は大成功し 世の中の称賛を浴びる。そして、それを陰で支えた人たちがいるのも事実でしょう。
企業が成長する華々しい表舞台の話は多いと思いますが、その陰で、一兵卒たちは何を感じ、何に悩み、何を夢見たのか、そのような視点で、「お~いお茶」の裏のウラ舞台を語ってみたいと思います。

そして、今日に至るまで「お~いお茶」は、生産家の皆様、抽出からボトリングまで商品を作っていただく提携先様、販売店のお取引様、そして、なによりご愛飲いただいているお客様のお陰で、ブランドの一翼に育てていただいた。そう心から感謝しております。

昭和の就職活動

 私が入社したのは、伊藤園の創業から12年の後でした。日本茶・緑茶リーフティーで日本一との触れ込みと、学歴不問、門閥打破、実力主義の企業案内に、半ば不安、半ば期待して入社したことを覚えています。

 大学4年の時、同窓の連中は5月には教授の推薦枠を密かに狙って、コソコソ?(笑)立ち回っておりました。

そんなことに無関心・無頓着な私は、10月から始まる企業訪問で十分と考えていた訳です。「俺は正々堂々、10月1日に行くと。」(1980年頃は、企業訪問解禁と入社試験は大学4回生を対象に、10月1日~とされていました。)

ところが、10月1日に訪問したって、そんなもんカタチばかり。とっくに全て決まっていたんですね。世の中こんなものかと、初めて思い知りました。カタチばかりの試験を受けたって、連戦全敗。どうすっかと思いきや、伊藤園という会社が研究室を拡充したいので工場見学をとの話がありました。

私は関西におりましたので、伊藤園って初耳。見たことも聞いたこともない。「とりあえず行ってみっか」とシブシブ(苦笑)訪問しました。

 ところが、行ってみてビックリ仰天。

工場総出で出迎えてくれました。門前払いが当然と思っておりましたので、イャ~~驚きました。未来に賭ける熱気と言うんでしょうか。どこにも行くとこはないし、教授は熱烈に大学院を勧めてくれましたが柄でもないし、結局、伊藤園に!となりました。

厳しい現実と苦労人のアドバイス

熱気で迎えられたのが、伊藤園だったのですが、入社してまず配属されたのは、関西の営業部。ルートセールス営業。1980年より少し前の話です。

会社訪問の歓待とは裏腹に、厳しい現実が待ち受けていました。

 配属後初日は、いきなり立売り販売でした。想像してみてください。お茶のことなんて全く何も知らないアンちゃんが、突然、お茶の量り売りをする。

バラ茶といって、スーパーさんの店頭で量り売りするのです。入社研修では形ばかり、お茶のことは学んでいましたが、まともに見たことも、触ったことも、入れたこともないお茶、リーフティーを一人で量り売りするんです。

 それでもまだ、時代が良かったんですね。まずまず買っていただけたんです。「おいしいヨ。おいしいヨ。」って大声出していました。

最初に買っていただいたお客様は生涯忘れません。小さなお子様連れの上品な若奥様風の妊婦さんでした。当時はオイルショックの後遺症が残っており、とにかくよく売れた。

ところがです。急速にモノが豊かになり始めました。そうすると、今までが嘘のように売れにくくなった。

 ある日、また店頭でバラ茶の量り売りをしていた時のこと。いくら元気に呼び込んでも、サッパリ。意気消沈していると、隣で店頭販売していたおじさんが見かねて、声をかけてきました。

「兄ちゃんなァ、おいしいだけではアカン。なんでおいしいんヤ。できたて、とれたて、特別、或は安い・・・が分からんと売れるか!店に来る客全部に売るくらいの気合ないと、立ち売りなんかできるかァ~!」

このおじさん、装飾品を売っていたのですが、その装飾品たるや見るからに胡散臭い。素人見にも、マガイ物??しかし、その道で生きる苦労人のアドバイスは心に残りました。商いの初歩を、偶然の出会いから学びました。

 
名前を呼んでもらえるようになるまで

新入社員は約3か月の立ち売り、その後約1年は新規開拓専従となると、聞いていました。新規開拓を始めて1か月も経たない頃、突然大型のスーパーマーケットを担当せよと命を受けました。何でも、欠員が出たようでした。

 不安半分で引継ぎ後、大手スーパーを担当しました。ところが、相手のご担当者はまともに話を聞いてくれないんです。何せ相手は、当時成長著しく鼻息の荒い大手スーパーの敏腕 担当者様。学卒の若いアンちゃんでは軽く見られます。会社からは、セールスマンシップ「商品を売る前に自分を売れ」と厳しく教えられていました。しかも、販売予算は気が遠くなるほど高い。どうするか?

こうなりゃ、夜討ち朝駆けだ。朝6時過ぎに出発。開店前の一店目で品出しを手伝い、自社の売り場を満タンに整える。その日最後に回るのは、夜の8時過ぎ。商品の収納を手伝って、閉店後帰社。だいたい夜の10時を過ぎていました。今なら考えられない、あってはならない、とんでもない話です。しかし、1980年頃は別に不思議でも何でもないことでした。

半年が経つ頃になって、ようやく名前で呼んでくれるようになりました。相手のご担当者も皆若かった。だから打ち解けてくると友人のような関係となり、それはそれで楽しくなりました。

しかし、そのすぐ先にとんでもない荒波が待ち受けていたんです・・・。
そのお話は、また来週。


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